2015年7月10日金曜日

現代の書


書物、出版物というものは形あるものを言うのか、そのコンテンツを指すのか。
私はここ数年、電車でサラリーマンが週刊誌を読む姿、学生が漫画を読む光景をほとんどみない。
しかし、彼らは「読書」はしている。勿論、全ての乗客が読書をしているわけではないが、デジタルコンテンツを読み、それを情報源の主としている。

この事実は日常生活に殺伐とした無機質な感覚を植えつける。

傍からみれば、何を読んでいるのかはわからない。完全な「個の空間」をこの十年で我々は手に入れられる環境になった。

活字だけでなく、音楽、映像といったコンテンツそのものだけを抜き取って楽しむという慣習が当たり前になってしまうと、これまでのようにいくつもの行程を経て世に送り出されたものに比べ、「深み」がなくなる。ワインをじっくり熟成させるように、できあがった作品に様々な装飾、または肉付けをしていくなかでクオリティー、完成度は増していった。それをなくして、いきなりメインディッシュだけというのは味気なく、非常に希薄なものに映る。

創り手側は常にニーズを先読みし、先手を打とうと必死なわけだが、その競争に終わりはない。その結果、作品の主導権は作家ではなく、読者に移ってしまった。ここに作家のジレンマが生まれた。時間をかけて創作することが制限される。よほどの大作家なら話は別だが、世の中に供給される作品数が飽和状態の為、常にスピードが要求される。かつてはそこを少なからず出版社がコントロールしていたが、ネット媒体によってその調整弁もなくなった。

数多の新人賞から作家が誕生し、消えてはまた生まれる。文学界の新陳代謝は一見正常に機能しているように見える。しかし、その機能はもはや形骸化していると言ってよい。分かりやすい例を挙げるならば、芥川賞・直木賞であろう。これらの賞を受賞したからと言って、作家としての将来が約束されたわけではないが、後の作品がコンスタントに発表できていても、読者と「線」では繋がっていない。あくまで、受賞時の瞬間最大風速のような圧倒的情報量のなかで手に取ったに過ぎず、それが一過性ではなく、継続性を持って読者との繋がりを維持している作家は近年、稀と言ってよいだろう。

これを業界は衰退、不況だといい作家の鍛錬を怠った。作品を発信する場を勝ち取ったはずなのに、満足にそれができない。勿論そこには完全実力主義という原則はあったとしても、出版社(編集者)は作家の可能性を最大限引き出す義務がある。これが媒体の多様化によって、作家を養う眼が分散してしまう事態を生んだ。作家はセルフプロデュース能力が高くなければ生き残れなくなり、編集者としての視点を持てる者が新しい時代の作家像を形成していった。