話はだいぶ遡るが、明治維新以降、日本の手本は「欧米」だった。
日本人の技術力もさることながら、私はその適応能力に驚く。
まず、幕府が倒れたあと、国民は大きな騒動(士族の反乱等はあったが)もなく新政府を受け入れた。
あれだけ、徳川の世が260年余続いたにも関わらず、次の国家の統治者が新政府だとなったとき、普通ならば何かしらの抵抗が続いてもおかしくない。
そして、一気に富国強兵のもと、近代化が進んでいった。
そのあとの歴史は周知のとおり、列強の仲間入りを果たし、「一等国」になった。
日本人の心の切り替え方というか、潔さみたいなものは日本人のアイデンティティとして脈々と流れているのだと実感させられる。
敗戦後の高度経済成長も然り、敗戦国となった日本はその現実を受け止め、必死に国民は働いた。
前置きが長くなったが、最近、政治や教育の現場で掲げてきたスローガンにジレンマが生じている。現実はもっと深刻であり、構造そのものが崩壊している。
まず、「ゆとり」
ゆとり教育に代表されるこの言葉は、子どもたちに自由な時間を持たせ、個々の長所を伸ばしていくというのが主旨だった。しかし、蓋をあけてみれば、新たに生まれた時間を塾に注ぎ、さらなる受験競争の激化に繋がった。その一方で家にこもりネットやゲームに没頭する子どもたちも増え、二極化が進んだ。彼らは成人し社会人としてのスキルを身につけられないまま、ただ時間だけを浪費する日々を送っている。
そして、「平等」
ある学者は男女平等の社会は日本の慣習に本当の意味で根付かなかったと言っている。確かに女性の社会進出を掲げ、法も環境も整ったかに見える。しかし、好不況の波はあると言え、「女性が家を守る」という流れはそう簡単に変わるものではないと言うのだ。これは私も一理あると思う。まず、結論を出すにあたって、雇用機会均等法など社会全体が女性の地位向上を推し進めたにも関わらず、この20年間統計から見ても、おおきな変化がなかったことは確かな要因だ。さらに非正規の割合が年々増加し、「本当は家事、育児に専念したいが、仕事に出ざるを得ない」という理由で仕事をしている女性も増えた。これだけ高学歴でスキルを身に付けた女性が多い世の中であっても、依然として企業、社会は「いずれは結婚、出産」の考えが拭いきれないのであろう。
最後に「平和」
戦後60年余り、日本は再び大きな岐路に立っている。自衛という肩書が外れ、もし軍隊が再び作られたとき、それは自衛だけでは済まなくなる。どこかで紛争が起きれば軍として戦地に赴く。諸外国から戦力として求められれば当然、行かざるを得ない。
なぜ、これらが一人歩きをしているのか。
それはこれらの理念・理想を追求すればするほど、逆の現象が起きるからである。
明治維新のくだり、当時日本はハードの面では列強に劣らぬ技術を誇った。しかし、ソフトの面では欧米の「個」を重視せず、日本古来の「和」を尊んだ。その柔軟性がうまく社会で機能した。戦後、再びハード面で急速な成長を遂げ、日本は豊かになったと誰もが思った。しかし、現在に至るまでソフトの面では「個」がどうやら尊重される社会になってしまったらしい。
ゆとりを持とうとすれば、相手に負けまいとさらに過酷な環境に身を置かされ、平等を謳えばさらに冷淡な反応を浴びせられる。そして平和を願えば危機感がないと揶揄される。
これなら何もしないほうがよっぽど多くのものを得られるのではないか?
競争がなくなったからといって、安定が生まれるわけではない。
安定は幾多の要素が複雑にバランスをとりながら、保たれている。そこには当然、格差もあるだろう。差別もあるだろう。
それを乗り越えようとする力を絶やさない事こそが安定の最大要因であると考える。
みな、同じではないことが良いこともたくさんある。
2013年1月13日日曜日
2013年1月3日木曜日
「天職」とは何か。
若いひとは特に、今の仕事は自分に向いていない、つまらない、しんどいと言います。
確かにそうでしょう。
だから、自分に合った職業とはなにか、好きになれる仕事は何なのか、「天職」について悩むわけです。
ぼくは「天職」とはきらいになれない仕事、だと思っています。
好きな仕事なら尚良いですが、そんなに自分が夢中になれる環境などないものです。
もっと、言えば今やっている仕事が「天職」または「天職」に繋がっているものだと思います。
仮にとても辛く、「辞めたい」と思っている仕事だとしても、自分で何か行動を起こさない限り何も変わりません。もし、そこで行動を起こして、何かが変わり、結果自分のなかでやりがいを感じられるものが生まれたとしたら、まさに「天職」です。
また、もう耐えられないと、環境を変える行動に移してもそれは今の職場と次の職場を天秤にかけたとき、新しい職場に可能性を見出したわけですから、一歩前進したといえるでしょう。
そして、なにも行動を起こさず、不平・不満を言いつつも結局、同じ環境に居続けていても、それもまた「天職」なのです。
仕事は自分で掴み取りに行かない限り、得る事はできません。そして常に選択を迫られます。バイトで、求人誌の中からどれがいいのか探している時点で、取捨選択をしているわけです。
他人に押し付けられたものでない限り、自分で選んだ仕事なのですから、何も文句は言えません。
ただし、冒頭で述べたように嫌いな仕事はどう頑張っても続かないときがあります。「辛い仕事」と「嫌いな仕事」は別です。
そのときは自分を奮い立たせ、選択をするべきです。
確かにそうでしょう。
だから、自分に合った職業とはなにか、好きになれる仕事は何なのか、「天職」について悩むわけです。
ぼくは「天職」とはきらいになれない仕事、だと思っています。
好きな仕事なら尚良いですが、そんなに自分が夢中になれる環境などないものです。
もっと、言えば今やっている仕事が「天職」または「天職」に繋がっているものだと思います。
仮にとても辛く、「辞めたい」と思っている仕事だとしても、自分で何か行動を起こさない限り何も変わりません。もし、そこで行動を起こして、何かが変わり、結果自分のなかでやりがいを感じられるものが生まれたとしたら、まさに「天職」です。
また、もう耐えられないと、環境を変える行動に移してもそれは今の職場と次の職場を天秤にかけたとき、新しい職場に可能性を見出したわけですから、一歩前進したといえるでしょう。
そして、なにも行動を起こさず、不平・不満を言いつつも結局、同じ環境に居続けていても、それもまた「天職」なのです。
仕事は自分で掴み取りに行かない限り、得る事はできません。そして常に選択を迫られます。バイトで、求人誌の中からどれがいいのか探している時点で、取捨選択をしているわけです。
他人に押し付けられたものでない限り、自分で選んだ仕事なのですから、何も文句は言えません。
ただし、冒頭で述べたように嫌いな仕事はどう頑張っても続かないときがあります。「辛い仕事」と「嫌いな仕事」は別です。
そのときは自分を奮い立たせ、選択をするべきです。
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