2016年6月23日木曜日

企業と学歴。

昨日は6年ぶりぐらいに新宿の地に赴いた。

バスタ新宿がホームの上にあるとも露知らず、やけにすっきりしてしまった南口前の甲州街道に立ち尽くしてしまった。

ある会社に伺うために新宿へいったわけだが、ドトールで時間調整でコーヒーを飲んでいたら、段々就活生で席が埋まってきた。緊張した面持ちで手帳に目をやり、必死に何か書き取っている学生もいた。

僕が学生のときと同じ景色。当時はスマホなんてなかったから、ぎりぎりまで情報収集するなんてことはできず、玄関をでたら腹を括って音楽を聴いていたっけ。

オリンピックの選考みたいに結果がカタチで分かるものは、就職活動における不愉快な緊張感はない。3番以内とか、10番以内とか、明確な設定値をクリアすれば決まるからである。

だが、企業の採用は面接中でも空気が一変することもあるし、明確な基準がないから良い意味で未知数の部分を評価して取ってもらえることもある。ただ、学生たちが昔と変わらず内定取りに躍起になり、心の安定剤として内定を複数獲得に走る光景はいささか残念な気持ちになる。

時系列を巻き戻せば、親は「いい会社」、いや「いい生活」をさせたいから、子どもに勉強させる。自分だってそうやっていた。成績は上じゃなかったが、どうしたらこの先自分が食っていけるのか、社会人へのスタートが近くなればなるほど考えた。むしろ、大学では企業研究よりも自分の社会でのスタンスの置き方をどうすべきか、サラリーマンなのかフリーランスなのか、公務員なのかみたいなことを考えていた。

学生が新社会人になって面食らうのはどの会社でもけっこうみんな同じようなことをやらされ、継続と忍耐が求められるということ。その準備期間があってはじめて「仕事らしい」仕事を任される。安定と挑戦が同時にされる環境はめったにないといっていいと思う。社風こそ違えど、こんだけ似たような労働問題があちらこちらから湧き出てくる時点で根っこはみんな似ていることをものがたっている。

中途採用が当たり前になり、野球でいえばいつでもみんなFAで好条件の環境に集まってくる。そこでしのぎを削るか、球団一筋でみんなに愛されながら仕事をするか。たった数パーセントの大企業にしか幸せがないと思ったら、人生損をする。