2010年5月29日土曜日

何の為に生きるのか。

自分のためか、誰かのため。



自分のためなら、妥協できない。



誰かのためなら、どんなことだって耐えられる。



いろんな理由をつけても心が拒むなら、それは辞めろってもう一人の自分が言っている。



愛おしい人が傍にいるなら、疲れや傷を癒してくれるから、歯食いしばって日々を過ごせる。



胸に手をあてて、問うてみる。



幸せはどこにあるのかと。



応えが返ってこないのなら、それはもう手にしてしまったのかもしれない。



あまりにも自然すぎて気付かないだけ。



2010年5月25日火曜日

久々に代々木に集う。

先週の土曜日、以前参加していた会食恐怖のオフ会があるということで、急遽混ぜてもらいました。



みなさんそれぞれ、辛い思いをされていてその気持ちは痛いほどよく分かりました。



僕は当事者だった立場として何を伝えられるか考えていたんですが、あまり精神論みたいなことを話しても意味がないと思い、具体的な経緯をお話ししました。



この症状に限らず、僕は「後鼻漏」というこれまた厄介な鼻炎の症状を抱えています。これもたぶん、ある程度の時間をかけないと治らないんじゃないかな~と考えています。でも、これまでいくつかの経験をクリアしてきただけに「なんとかなる」という気持ちは持っています。むしろ、「絶対治る」と思っています(笑)



だから、鼻水だらだらの状態でも仕事場に行き、仲間に症状を説明して普通の生活をしています。何も言わずにいるにも見た目が悪いので、最低限のエチケットです。しかし、今思うのは、そういった症状を引き起こす原因が自分の内面的なもの以外として外の環境、具体的に言えば、長時間のパソコン作業、通勤ラッシュにもまれながらの生活、食事など…



それらを排除してもし改善するのならば、無理にその環境に身を置く必要はないと思うのです。以前にも書いたように「東京」という場所は刺激に満ち溢れ、色々なものを僕に与えてくれました。交通も便利だし、おいしいお店もたくさんある。しかし、最近そこにいる自分がなんだかいきいきしていないような気がしてなりません。



満たされすぎて感覚がマヒしてしまったのか、己の中に違った価値観が生まれたのか。



これは少しじっくり時間をかけて考える必要があると思っています。



2010年5月22日土曜日

紙媒体のこれから。

今朝の朝刊にipadで講談社が京極氏の作品を発表するという記事が載っていましたね。



これから先、本がなくなることはありませんが、ユーザーが小説という「情報」をとるか、本という「作品」をとるか興味深いところです。



というのも、本には表紙があり、サイズ(デザインと言っておきましょう)があり、著者と出版社の共同作業の末できあがります。もはや当たり前となった携帯小説などは、情報の「コンテンツ」の一部としか私は捉えていません。音楽配信なども同じです。



アナログ人間と言われてしまえばそれまでですが、一つの端末にすべての情報が集約できてしまうことは、カタチで保存するというこれまでの文化が失われてしまうことになります。



思い出の写真を誰かからもらうとして、「じゃ、ファイルで送っておくから」と言われたらさびしくありませんか?例えかさばったとしても、手に取りその重みを実感できてこそ感動もひとしおだと思うのです。



時代の流れとともに消えていってしまうものは確かに存在します。



しかし、その基準をただの利便性や合理性だけで判断してほしくないものです。







下の写真はこの前行った、みなとみらいの夕暮れ時です。



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